この交差点で信号待ちをしていたとする。先頭の車から3・4台目に停止していたとしたら...真左にあるのが八洲(やしま)ホテルだ。
「謀殺・下山事件(矢田喜美雄)」によれば、当時このホテルは接収され、G2(参謀第二部)の作戦部隊「CIC」の指定宿舎として利用されていたという。
さらに矢田は捜査報告書から欠落している部分として、大西運転手の証言をのせている。それによれば失踪前日の7月4日の夕方6時すぎ、日本橋交差点付近にビュイックを停めさせた総裁は、およそ30分にわたって車を留守にしていたのだという。しかもこの付近で総裁が車を降りることは、6月の総裁就任以降ずっと続いていた。
大西運転手はこの点について取り調べ時、特に念を入れて話したのだが、問題にはされなかったらしい。たしかに捜査報告書には7月4日の総裁の行動について項目を割いているが、日本橋交差点付近で下車という事実はスッポリ抜けている。矢田はこう推定する。総裁がちょいちょい寄っていたのは八洲ホテルだったのではないか、と。
この本で紹介されている宮下栄二郎証言によれば、他殺された下山総裁に対する謀略は姫路CICの日系二世メンバ−が行なったとされているが、彼らがその行動拠点、作戦本部としたのが他ならぬこのホテルであった。
僕の素人考えだが、総裁を拉致するのに人目につく三越など使わなくても、このホテルから拉致しちゃえば楽なのに、と思うのだが...そのへんは深謀策慮のCICのこと、色々と事情があったのだろう。
●念のため福島鋳郎編「GHQ東京占領地図」を確認してみたが、Yashima Hotelの詳細な機能については確認できなかった。ちなみに米国公文書館のサーチエンジンで検索してみたら、ボロボロ出てきたが、Trade Service Division Audit Workpapersとは、何を意味するのだろう?
なぜ、総裁は三越ゆきをやめて白木屋百貨店に行こうとしたのか?
松本清張は「日本の黒い霧」の中で点と線とを結びつける。「白木屋でもいい」という言葉が「三越でも白木屋でも用が足りるという意味らしい」と前置きした上で、2つのデパートが地下鉄でつながっていることを指摘している。白木屋のある日本橋駅からは三越前駅まで地下鉄銀座線でひと駅だ。清張はその行為を「運転手への気配り」つまり情報提供者との三越での接触を秘匿する目的があったとしている。
いっぽう自殺説論者では、この言葉に一歩踏み込んだ見解を入れている者はいない。それは、失踪の手段として日本橋駅を利用するか三越前駅を利用するかの違いに過ぎないと判断したからだろう。
警視庁捜査一課捜査主任として捜査にあたった関口由三は、昭和45年に著書「真実を追う」の中でわずかだが白木屋での捜査について触れている。捜査一課は失踪後の足取りについて白木屋の捜査も行なったが、目撃者は一人も現れなかった。ただ、当時この百貨店の中には全日本通運という会社があって、社長の早川慎一は下山総裁の知人だったそうだが、普段あまり親しくなく、5日も訪れることはなかったそうである。なお、関口氏は元捜査官の立場から自殺説を唱えたのだが、この本が原因で松本清張と大ゲンカをしている。
では、買物途中で誘拐され、殺されてしまった総裁の場合はどうだろう。「白木屋でもいい」というのは、白木屋でも三越でも買えるような商品を購入する予定があったことになる。実はこの日、白木屋では各宗派の仏壇仏具のセールを行っていた。三越では235円もする岐阜提灯が白木屋なら190円で買えたのである。ご先祖の供養を欠かさなかった総裁は、今朝の朝刊の片隅にあったこの広告を見逃さなかったがために、みずから仏壇に入ってしまったのかもしれない。
白木屋というとモンテローザ(関係ありません)を思い出す人は現代人、昭和7年の火災を思い出す人は古代人ということになる。
三越、高島屋と並ぶ老舗百貨店だった白木屋、日本初の高層ビル火災で14人もの死者を出した白木屋、昭和モダニズム建築の傑作だった白木屋は、昭和24年のあの日もこれに近い外観をしていた。
ところが当時から経営は相当ガタガタになっていたようだ。おそらく品揃えでも三越、高島屋に相当水を空けられていたのではないかと思う。それを考えると総裁の「白木屋でもいいから」というひと言は結構キツく聞こえたりする。
そして、昭和31年に横井英樹の暗躍により東急電鉄に実質的に買収されてしまう。すぐに大改装が行なわれ、見るも無惨に窓をふさがれてしまった。その後面白くも何ともない外観になってしまったのは周知の通りだ。
僕は80年代の後半、高島屋日本橋店で学生アルバイトをしていたことがある。にもかかわらず、しばしばここへ入り浸っていた。なぜなら、この百貨店は「のほほん」とした魅力に溢れていたからだ。高島屋よりお客さんは相当少なかった。お陰で夏は涼しくてのんびりできる場所だったのである(一応バブル崩壊前の話なんですが....)。
正面入口には「名水白木屋の井戸」というのがあり、柱の隅からこんこんと水が湧き出ていた。思えば井戸のまわりでくつろいでいた人たちは「TOKYU」の袋よりも、赤青もしくはバラの袋を持っている人の方が多かった。店内の階段付近の大理石にはアンモナイトの化石があった。建築当初からのものと思えるアールデコ風のモザイク装飾も魅力的だった。
三越と高島屋に挟まれた状況を考えてみれば、まだ「白木屋」という看板には威厳があった。だから東急も昭和40年代前半までは「白木屋」の看板を捨てきれなかったのだろう。何しろ夏目漱石ですら「猫」の中で迷亭にフロックコートを買わせているのである。それが「東急」という看板に代わった後は、渋谷ならいざしらず、日本橋ではちとキツかったのではないだろうか。
とどのつまり、バブルの崩壊にともない平成11年に閉店、創業以来340年にわたる歴史を終えたのであった。そしてあの素晴らしい建物もガレキの山と化した。今でも僕はこの空間が失われたことを90年代の大きな損失だと思っている。
●東京通信工業(SONY)が昭和20年10月に発足した時、最初に本社を構えたのがこの白木屋3階の「配電室」だった。
●メリルリンチのビルには「名水白木屋の井戸」が残るのだろうか?それが心配である。
●追記(2004年11月):この部分を書いて2ヵ月後の2004年3月30日、跡地に日本橋一丁目ビルディングがオープンした。たしかにメリルリンチはオフィス部門のメインテナントとして入居はしているが、「メリルリンチのビル」という前項の表記はどうみても間違っている。
商業施設部分の「COREDO日本橋」というネーミングは「Core」と「江戸」を合体させたそうなのだが、「お江戸日本橋」「これぞ日本橋」のダジャレの域を越えていない(こうしたダジャレ物件は全国に無数にある)。商業テナントに関しては、「ここは地盤だ」とばかりに、東急ストアの高級食材スーパー「プレッセ」が入居、「ここが発祥の地」とばかりにソニープラザの「Serendipity」が入居していた。名水白木屋の井戸も完全復活を遂げていた。