8時45分から始まったNHK第一放送「子供の音楽」の演奏曲目が今でも残っている。一番目の曲は「汽車ポッポ」だった。いっしょに歌ってみて下さい。
お山の中ゆく汽車ポッポ
ポッポ、ポッポ黒いけむを出し
シュシュシュシュ白いゆげ吹いて
機関車と機関車が前引き 後押し
何だ坂 こんな坂 何だ坂 こんな坂
トンネル 鉄橋 ポッポ ポッポ
トンネル 鉄橋 シュシュシュシュ
トンネル 鉄橋 トンネル 鉄橋
トンネル トンネル
トントントンと のぼりゆく
(作詞・作曲 本居長世 昭和2年初出)
総裁の頭の中には、こんな汽車ポッポの記憶がある。
3歳の定則少年は相生橋の上に立って、欄干の隙間から眼下に広がる神戸駅の操車場を眺めていた。そこには構内作業用の小さな汽車が喘ぎながら貨車を押し牽きしている風景が見えた。彼はこれを見るのが大好きだったのである。やがて貨車は連結され、長い列車へとなっていった。
編成ができあがると、大きな汽車が連結され、彼がいま立っている橋の下を通り抜けてゆく。汽車の黒煙が橋を包みこむころ、彼は橋の反対側へと駆け出していた。真っ直ぐに伸びる一本の線路の上を、列車はどこか遠い町へと旅立ってゆく。彼は1日中飽きもせず、この風景を眺めていた....
大手町交差点を右折したビュイックは国鉄の呉服橋ガードにさしかかる。数多くの「下山本」の中で「東京駅北側のガード」と呼ばれているところである。まさにこのガードをくぐろうとした時、「白木屋(しろきや)でもよいから真っ直ぐにいってくれ」と、総裁は言った。
当時、このガードから250mほど進むと外濠があった。このお堀を渡る橋の名前が呉服橋である。そして呉服橋の対岸で永代橋通りは外濠通り(5thストリート)と交差していた。
総裁は三越を利用する場合、三越南口駐車場にビュイックを駐車させて買い物をするのが常だったが、ここにゆくには外濠通りを左折するのが近道だった。いっぽう白木屋百貨店(のちの東急百貨店日本橋店)は永代橋通りを「真っ直ぐ」進んだところにあった。
つまりここで総裁が言わんとしているのは、「白木屋でもよいから(外堀通りを曲がらないで)真っ直ぐにいってくれ」という意味なのである。
この当時、呉服橋ガードの手前北側に「朝鮮銀行ビル」というビルがあった。現在は新大手町ビルが建っているところだ。「朝鮮銀行」といっても、最近何かと話題のアレではない。戦前の韓国統治時代に設立された中央銀行のことである。戦後、無用の長物となった建物は接収され、GHQの民間輸送局(CTS=Civil Transportation Section)が設置されていた。国鉄の基本的な政策や運営に関し、勧告と指示を与えるCTSには、シャグノン大佐という人物がいた。
彼は鉄道関係の担当官で、下山総裁、加賀山副総裁が最も頭を痛めた人物だったといえる。日本の鉄道を「マイ・レイルロード」と豪語し「赤字に困るなら定期券にパンチを入れるようにせよ」「鉄道技術研究所をつぶせ」などと無理難題を押し付けてきたシャグノンは、加賀山副総裁の回想によれば「ドンキホーテみたいな単純な奴」だったそうで、7月3日の午前1時30分ごろ、酒に酔った勢いで洗足池の下山邸まで押しかけ、人員整理の実施時期を迫っている。
もっとも、これには総裁にも問題があった。その数時間前、加賀山副総裁とシャグノンに面会する予定だった総裁は、銀座の料理屋に入り込んだまま、面会をすっぽかしてしまったのである。
総裁が「白木屋でもいいから」と言ったタイミングは、そのCTS前を通過した時だったことになる。
ガードを越えたビュイックは呉服橋を渡る。眼下には外濠が流れているはずなのだが...厳密にいえば「流れていた」かどうかは微妙な時期ではある。なぜなら、この近辺ではすでに埋立て工事が進行していたからだ。
戦後の東京の街には戦災によって破壊された建物の瓦礫や残土がそこかしこに累々と積み上げられていた。昭和通りの中央緑地帯などもその最たるもので、あの広い通りには処分しきれない瓦礫の山が延々と続いていたのである。戦後復興の中で、それは占領軍にとっては障害でもあり、汚点でもあった。かといって東京には瓦礫の山を運搬するトラックも不足していた。どうするか?そこで目をつけられたのが近場の河川だった。大阪冬の陣ではないが、戦が終わった後で「外濠」は埋められることになってしまったのである。
かくして運河の都に土煙がたちあがる。外濠のうち最初に埋立てが開始されたのは呉服橋〜八重洲橋〜鍛冶橋間だ。鈴木理生著「江戸の川・東京の川」によれば、最初の埋立て認可がおりたのは呉服橋の南200m程の区間で、昭和23年6月18日、竣工日は25年3月6日となっている。
しかし左の画像を見てほしい(上から常盤橋、縦の一石橋をはさんで呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋)。これは昭和22年7月24日に米軍が撮影した航空写真(国土地理院提供)なのだが、すでに呉服橋〜鍛冶橋間は東岸から埋め立てられており、西側に若干水面を残すだけとなっている。
また、呉服橋の北側は埋立てこそ始まっていないものの、一石橋を越えて日本橋川水系まで土砂が流入してしまっているのがわかる。現在であれば生態系の破壊だ何だと大問題になっていたことだろう。
鈴木のいう昭和23年認可というのは復興のペースからいっても遅いような気がする。すでにガレキは無法にも投げ込まれており、それを後追いの形で認可したのか、埋立て後の道路整備に関する認可だったのではないだろうか。八重洲橋の西詰に東京駅八重洲口に新駅舎が開業し、営業を開始したのが昭和23年11月16日(この駅舎は半年後にタバコの不始末で焼失)であるから、この時期にはほぼ埋立ては完了していたと考えた方が自然である。事情に詳しい方がいればご一報頂けたら幸いだ。
●呉服橋の北側は一石橋の分水点までの50mが埋立てられた。「江戸の川・東京の川」によれば、27年11月27日の埋立て完了により、呉服橋は完全に橋としての機能を失っている。
●追記 : その後、調べたところによれば、呉服橋以南の外濠埋め立て工事は、昭和22年の11月には完了していたことが判明した。埋め立て完了と共に、八重洲橋は撤去され、短命に終った八重洲口新駅舎の建設工事が始まったようである。