下山事件資料館

7月5日 午前8時49分

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三越東南角

三越東南角ビュイックは日本橋を渡る。ここから通りの名称は「中央通り」へと変わる。橋の上から左手を眺めると、帝国製麻の赤レンガの建物が川辺に美しい姿を映し出している。見上げれば空はどんよりと曇っていたが、まだ雨が降るには時間がありそうだった。

まもなく三越日本橋本店の建物が見えてきた。

ここでの大西運転手の役割は三越開店の有無を確認することだ。だが、すでにこのとき大西運転手の頭の中には「三越はまだ閉まっている」という見込みがあったようだ。

なぜなら、いつもの大西運転手であれば、迷わず三越の2つ手前の道を左に曲がって南口へと向かっているはずだ。しかし彼はそのアクションをしていない。そのまま中央通りを直進して正面玄関(ライオン口)へと進んでいる。おそらく大西運転手は三越がまだ閉まっていることを見越して、次の行動がとりやすい大通りを進行したのだろう。

開店の確認.....三越に詳しい方ならば、何も正面玄関まで進行しなくてもこの角に日本橋口玄関があるのにと思われるだろう。しかし昭和24年当時、それは不可能だった。日本橋口そのものが存在していなかったのである。

当時の三越はこの東南の角地を、買収できていなかった。代わりにここには木屋伊助刃物店(現在、中央通りを挟んでお向かいにある)、木屋漆器店など4軒の商店が並んでいたのだった。三越がこの角地を制覇して、大増築をするのは事件の7年後のことである。

8時49分 三越日本橋本店前

三越ライオン口ビュイックはおそらく正面玄関前でいったん停止したのだろう。大正3年竣工のルネサンス式の建物が美しい。金メッキを施した装飾は華やかすぎるようだが、三越なのだから許そう。竣工時に設置された2頭のライオンがこちらを睨んでいる。おっと、それどころではない。開店時間の確認をしなければ.....「午前9時半開店」の札が下がっている。

まだ開店まで40分以上ある。大西運転手は次の指示を求めるために「開店は9時半ですね」と総裁に話しかけた。ところが総裁は「うん」としか返事をしなかった。

この瞬間、大西運転手は総裁の行動に関して提案をしなければならなくなってしまった。提案内容は無数にある。ひとつは「このまま開店まで待ちますか?」だ。おそらく返事は「うん」だったろう。「高島屋日本橋店へ行ってみますか?」。その返事もきっと「うん」だ。

総裁は多分考えごとをしていたのだろう。何を言っても返事は「うん」だったに違いない。
銀座カンカン娘の”カンカン”ってどういう意味でしょうね」
美空ひばりっていう子のレコードが初売り出しになるらしいですよ」
手塚治虫っていうおもしろい漫画家がいましてねぇ」
すべて返事は「うん」だ。

だが大西運転手の頭の中には、三越が閉店していた場合、次に行なうべき行動が想定されていた。それは明治の人間らしい、勤勉を美徳としたものだった。

「役所にまいりますか?」
「うん」

買い物ができないのだから、いったん本庁に寄って働きましょうというのだ。それに総裁は「うん」とひと言だけ返事をした。そこで大西は三越本店北側の角を左へとハンドルを切った。

三越の開店時間

当時の三越ロゴ(といっても今と変わらないか)

総裁は三越の開店時間についてどう認識していたのだろう。考えられるのは次の4つだ。これをわかりやすくカウンセリング風に説明してみよう。

下山 : 8時30分には開店していると思っていました。
カウンセラー : 朝一番で百貨店は開いているべきだという、消費者特有のエゴが感じられます。たしかに当時の三越は労使間が険悪な状態ではありましたが、そんな朝早くから開店させるような人使いの荒い企業ではありません。

下山 : 9時には開店すると思っていました。
カウンセラー : 10分ほど車内で待って、それから入店するおつもりだったのでしょう。突然できてしまった40分の空き時間をどう埋めるべきか考え込んでしまったお気持ちもわかります。しかし、自殺する場合ならいざしらず、情報提供者に接触する予定があるのなら正確な開店時間を確認すべきだと思います。

下山 : 9時30分には開店することは知っていましたが....
カウンセラー : たまに開店前から扉を叩いて「ちょっとだけの買い物なんで開けてくれぇー」と言っている方がいますが、あなたがまさにそうですね。逆に質問ですが、9時45分に情報提供者と会う予定だったという説がありますが、仮に8時49分に三越に入店できたとしても、9時に入店できたとしても、そんな長時間店内をウロウロしたら、全然隠密行動ではないと思うのですが。

下山 : 開店時間を全く知りませんでした。
カウンセラー : 自分の行った時間には必ず百貨店は開いているべきだという、消費者特有のエゴが感じられます。また、自殺する場合ならいざしらず、もし情報提供者と接触する予定があるならば、正確な開店時間を確認すべきだと思います。今日の会議の時間といい、接触時間といい、開店時間といい、あなたは時間にルーズなような気がしますが、ちゃんと日々の行動を手帳に記入していますか?
下山 : すいません、6月28日からつけていないもので....

暗殺者通り

暗殺者通り三越北側の角を左折したビュイックは、本店北側の道を常盤橋方面へと進んでゆく。幅員15mという適度な幅をもち、ルート選択も適切だ。大西運転手の腕がキラリと光る。

右手には三井グループの総本山、三井本館のコリント式円柱が整然と並んでいる。ギリシャ神殿のような力強い外観は、女性的な三越とは対照的だ。設計段階で、三井合名会社理事長の団琢磨が「壮麗、品位、簡素」というコンセプトを提唱し、それが具現化された建物だった。平成10年には重要文化財に指定されている。

その団琢磨が、みずからプロデュースした建物の前で暗殺されたのは昭和7年3月5日のことだった。翌日の朝日新聞の記事によるとこうなる。

団琢磨男爵が出勤のため原宿の自宅を出発したのは午前11時20分ごろだった。小島運転手の運転する専用車で三井本館へと向かった。11時30分すぎ、この路上に降り立った団は三井本館に3つ並んでいる入口のうち、「給仕のあける右側の扉」(松本清張「昭和史発掘」では「給仕の出入りする左側通用口」となっている)から入ろうとした。その瞬間、かねてより待ち構えていた血盟団の菱沼五郎が駆け寄ってきてブローニングを発射、団はその場に崩れるように倒れた。護衛として同乗してきた陸軍予備役石岡曹長が菱沼を取り押さえるいっぽうで、小島運転手や銀行員らが団を5階の医務室に運んだ。11時46分には近くの泉橋慈善病院の医師が駆けつけたがすでに瞳孔反応はなく、絶命状態だった。

下山総裁他殺説の中にもしばしばこの道は登場する。この通りに面した三越北口から何者かに連れ出され、三井本館前に駐車していた車に乗せられて別の場所で殺されたというパターンだ。そうだとすればこの道は2つの暗殺事件にかかわったことになる。

血なまぐさい話のお次はこんな話。昭和20年9月11日のお昼前のことである。帝国ホテル支配人の犬丸徹三はひょんなことからマッカーサーの要請で彼の車に同乗し、東京案内をする羽目になってしまった。将官たちとの昼食会に40分ほど空き時間ができたためのハプニングだった。

このとき、マッカーサーと犬丸の乗った車は、ビュイックとは反対方向からこの道を通り抜けている。さっきから無表情で説明を聞くマッカーサーに何か気の利いたセリフを言わなければならないと犬丸は考えたのだろう。「右が東洋一の百貨店だ。左の三井本館のなかには、帝国銀行がある。つまりここでは、ロンドンとニューヨークが同一場所にあるのだ」と言った。

このとき、連合軍総司令官ははじめてニッコリ笑ってうなづいたと、犬丸は回想している。