下山事件資料館

7月5日 午前8時30分

ごたごた気流

五反田地図昭和20年5月25日の空襲により、五反田駅の西側は壊滅した。

ビュイックが五反田に近づくにつれて、沿道にはバラックが増えてくる。戦後4年が経過してもこの付近には、そこかしこに荒涼とした風景があった。そんな中で焼け残った星製薬の巨大な本社工場が街道の左側に見えてくる。

星製薬は創業者である星一の手腕によって大正時代には全盛期を迎えたが、政治抗争のゴタゴタに巻き込まれ、官憲の圧力で信用を失墜、業績はみるみる低下し、星の最後の望みだった台湾での事業も敗戦により挫折していた。

この日から1年半後の昭和26年1月19日、星はアメリカで客死する。当時26歳だった息子の親一はといえば、会社の経営よりも「空飛ぶ円盤」や「人造人間」の創造に余念が無かった。結局ガタガタになっていた会社は星家から大谷米次郎の手に渡り、その場所には東京卸売センター(TOC)が建つことになる。いっぽう晴れて経営の身から自由になった息子は「新一」というペンネームでSFショートショートの鬼才となってゆく。

夜霧の第2京浜国道

星製薬の手前には巨大なロータリー(西大崎1丁目ロータリー)があった。現在でも丸みを帯びた路側帯にその面影を知ることができる。ここから鋭角に分岐して第2京浜国道(大森アベニュー=現国道1号線)が横浜へと向かっていた。

片側3車線の広い幅員、そして直線的な道路が特徴の第2京浜国道は、そもそも第12回東京オリンピックに向けて昭和11年に着工された。非常時には戦車の移動や戦闘機の滑走路として利用することも想定されていたという。

日本版アウトバーン計画は戦争によってオリンピックもろとも中断されたが、戦後になって工事は再開された。つい2ケ月前の4月30日には多摩川大橋が開通している。しかし横浜までの区間には多くの未整備区間があり、全面開通には昭和33年まで待たなければならない。フランク永井の「夜霧の第二国道」が発売された年だ。おかげで交通渋滞の名所となってしまったこの場所に、都内初の歩道橋が設置されるのは昭和38年のことである。

現在ならば、このロータリーで第2京浜と中原街道は斜めに交差、五反田駅の南北それぞれのガードをくぐるのだが、当時の第2京浜はここが終点だった。ビュイックそのまま中原街道を直進する。大崎広小路のロータリーを横断し、現在「ゆうぽうと通り」と呼ばれている通りを抜けてゆく。

8時30分 五反田駅通過

五反田航空写真ここに昭和23年3月29日に米軍が撮影した五反田駅の航空写真がある。

まだ西口広場も第2京浜の北側ガードも存在していない。東口には都電の五反田駅前停留所が確認できる。

いっぽう、昭和26年頃に作られた「五反田住宅地図」は、この駅の周辺が数年で大きく変化したことを物語っている。

この地図では五反田駅北側のガードが完成しており、五反田駅西口も整備されている。だが、北側ガードを通るはずの第2京浜は用地取得段階のようだ。目黒川を渡る五反田大橋さえない。東口では都電の五反田駅前電停がコンクリートの構築物で周囲を遮蔽しているため、この頃になると南口ガードを抜けても左へは曲がれなくなつているようだ。こうした変化のはざまを、ビュイックは走り抜けていった。

ガードをくぐり抜けた右手には東急池上線のターミナルビルが建っている。当時このビルに入っていたのが、白木屋百貨店の五反田分店である。東急電鉄と白木屋の賃貸関係という縁が、後に東急の総帥五島慶太による白木屋百貨店買収へとつながってゆく。この17分後には、白木屋日本橋店へ行こうとする総裁だが、どうもここには用は無かったようである。

中原街道はここが終点。ここから先は桜田通りと八ツ山通り(42ndストリート)に分岐する。国鉄本庁に行くには桜田通りを進む方が近道たが、大西運転手は広い道を好んだ。広い第1京浜国道を目指してビュイックは右折し、八ツ山通りを品川方面へと進んでゆく。
時に8時30分であった。

矢田ビュイックは迷走する

いっぽう、矢田喜美雄のビュイック(「謀殺・下山事件」)はここから迷走をはじめる。

五反田ガード下を抜けると右に進んで魚藍坂下に出た。さらに国道1号線の広い道を品川近くに出て、芝公園前を通って御成門を過ぎた

この文章からビュイックのたどったルートを割り出すのは、邪馬台国の位置を特定するより困難だ。というのも、こんな道など存在しないからだ。

ビュイック広告「五反田のガード下を抜けて右」というのは八ツ山通りへ入ることにほかならない。ところが、矢田ビュイックは左の桜田通り(=現在の国道1号)を進行して魚藍坂下へ出てしまう。

魚藍坂下からさらに「国道1号」つまり桜田通りを進行したとしても、品川からは離れる一方だ。出てくる地名は三田もしくは田町であり「品川近く」と表現するには無理がある。

考えられるのは、魚藍坂下から高輪の台地を越え、泉岳寺へと抜けるルートだ。これならば第1京浜国道(当時の国道1号)の「品川近く」へと出ることができる。しかしこれは単に狭い道を大回りしているだけである。ルートに関しては大西運転手まかせだった総裁でも、毎日こんなルートを走らされた日にはきっとブチ切れるだろう。

なぜ矢田ビュイックがこんな複雑なルートを走ったのかはわからないが、このあたりのルートに関しては捜査報告や新聞各紙の報道に素直に従ってよいはずだ。そこには多かれ少なかれ「五反田から八ツ山を経由して品川へ出た」と書かれているのだから。