下山事件資料館

7月5日 午前8時21分〜28分

「ぢゃ、和田倉門に8時45分ってことで」

8時20分に自邸を出発した総裁専用車ビュイックが皇居前の和田倉門ロータリーにさしかかったのは8時45分ごろといわれている。所要時間25分。現在の中原街道の朝の大渋滞からは信じられない速さだ。

昭和24年当時、都内の主要幹線道路の制限速度は時速40キロだった。信号機はまだ少なく、主要交差点では必ず巡査が交通整理をしていた。これは余談だが、当時の巡査は官公庁の車(ナンバーの頭に41がつく)を発見すると、優先的に誘導してくれた。この妙な風習は昭和30年代前半まで続いたのだという。

当然ながら当時の道に渋滞というものはまったくなかった。むしろ走行の障害になったのは、電車の踏切や路上軌道を走るチンチン電車、そして自転車などの通行者ではなかったかと思う。

問題なのは正確なルートがどうであったかということだ。この日ビュイックが辿ったルートは文献によってまちまちだ。どうもこの日は「ぢゃ、和田倉門へ8時45分ってことで」といって、何台ものビュイックが下山総裁を乗せて洗足池から出発したようだ。この状況は和田倉門以降も変わらない。

ここでは最も正しいと考えられるルートを検討し、ついでにタイムテーブルも作ってみた。なお、カッコ内の距離は前行からの区間距離をあらわしている。

8時20分:自宅出発
8時21分:中原街道へ合流(400m)
8時30分:五反田駅ガード下(3.5km)
8時32分:八ツ山橋(1.4km)
8時33分:第一京浜国道で品川駅前(0.4km)
8時36分:三田停留所交差点を左折(2.1km)
8時38分:日比谷通りで増上寺前(1.2km)
8時39分:御成門交差点(0.2)
8時45分:和田倉門ロータリー(2.8km)

参考資料
●捜査報告書より7月5日の行動
●捜査報告書より大西運転手の証言
●7月22日付け朝日新聞より大西運転手への独占インタビュー

8時21分 中原街道へ合流

中原街道へ合流する下山邸前の坂を登りきったビュイックは左折して、池上線を月見橋で越える。そして現洗足坂上交差点で中原街道へと出る。当時進駐軍によって「Bアベニュー」と呼ばれていた通りだ。これを五反田方面へと右折する。

当時の中原街道は、五反田からちょうどこの交差点あたりまで拡幅工事が進んでいた。片側2車線、都電の軌道もない広びろとした道路に出たビュイックは俄然スピードを上げ、砂埃を巻き上げながら疾走する。まだ植樹して間もない街路樹が頼りなさげに夏の朝日を照り返している。

間もなく南千束の交差点を通過する。「環状7号線(50thストリート)」とは名ばかりの片側1車線の砂利道が、交差点の南を真っ直ぐ平和島の国道1号線(現15号線)まで伸びていた。片側3車線化に向けて用地取得が進行しているため、見晴らしはかなり良くなっていたが、反対方面は車の離合が困難なほど狭い道路が、民家の間をうねりながら代田橋方面へと続いていた。

この道が今のような形で開通するには、東京オリンピックまであと15年は待たなければならない。

続いて東急大井町線の踏切を越える。時間によっては、例え日本国有鉄道総裁であろうとGHQであろうと容赦なく待ちぼうけを喰らわせた踏切だ。中原街道はここだけ1車線になるため、ビュイックは減速する。踏切の右手に東洗足駅が見える。空襲による焼失後はバラック仕立てだったこの駅も2年後には旗ノ台駅設置にともない消滅してしまう。

ラジヲ

ビュイック41年型の運転席当時の車にしては珍しく、ビュイックにはラジオが搭載されていた。当時の日本の道路事情で真空管式のAMラジオとは、機械好きの大西運転手もさぞかしメンテが大変だったろうと同情する。

選局ボタンは五連のブロック型でB−U−I−C−Kの5文字がそれぞれ刻印されていた。スピーカーはきらびやかなクロムメッキのフレームが施されたもので、チューナーの上にデンと据え付けられていた。下山総裁はこのカーラジオを自慢の種にしていたという。

従業員を整理する国鉄総裁という旨味の少ないポストに就任した彼が、満足していた唯一の「モノ」がこのラジオだったのではないだろうか?そしてこのラジオは後で重要な役割を果たすことになる。

「ラジオに合わせて時計の時間を合わせた」という大西証言から考えて、この日もラジオが車内に流れていたのだろう。ちょうどこの時間、NHK第一放送では「名演奏家の時間」が放送されていた。セルゲイ・クーゼヴィッキー指揮、ボストン交響楽団によるメンデルスゾーン作曲「交響楽第4番 イ長調 "イタリア"」が流れていた。いっぽう第2放送では前日の再放送の「筝曲」である。ハイカラ好きの総裁の好みから考えて第1放送を聞いていたのではないかと推定する。

●あるいはWVTR(AFN TOKYO)かもしれない。