八ツ山通りを600mも進むと、右手の御殿山に新築まもない工場が見えてくる。小学校の木造校舎のようなその建物には「東京通信工業」と書かれていた。
ちょうどこの時期、工場内では純国産テープレコーダーの開発が行われていた。CIE(占領軍の民間情報教育局)でテープレコーダーを見て衝撃を受けた井深大、盛田昭夫たちは、何とかこれを国産化しようと考えていたのである。
まったく資料がない中での手探り状態だった。磁気を帯びた粉(磁性粉)を作り出すところから始め、ベースとなる紙テープに粉を塗る方法、それを録音再生するためのマシン、彼らはこれらの問題を試行錯誤のうえ、解決していった。
彼らの努力が結実するのは9月のこと。テープレコーダー試作第一号機の完成だった。その後も改良を加えられたテープレコーダーは翌年7月「G型」として商品化される。「もの言う紙」ということで前評判は高かったが、重さ45Kg、価格は16万円、ざっと下山総裁の月収で10ケ月分以上もした。期待に反してこの機械は全然売れなかったのである。
東通工とは八ツ山通りを挟んだお向かいに、高輪の台地へと上ってゆく坂がある。その坂を300mも登ったところ(高輪南町)に、もうひとりの偉大な技術屋が住んでいた。国鉄工作局長の島秀雄である。
下山と島が出会ったのは、大正10年の夏のことだった。京都三高に在学中だった下山は、たまたま上京した際、友人の紹介で島と出会ったのである。
東京大学工学部に進んだ2人は、大学での席順が隣同士であるうえ、住まいも近所同士となった。当時下山は兄嫁の実家に下宿していたのだが、その高木得三家は島家から5分と離れていなかった(後年下山は高木家の次女芳子と結婚することになる)。
さらに2人の縁は続く。卒業後、島と下山は鉄道省へと入省し、下山は運転畑、島は工作畑を歩む。一緒に仕事をするということはなかったが、2人は昭和11年から2年近くにわたって鉄道省在外研究員の一員として、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなどを視察している。このとき下山は島の誘いで南アフリカまでつきあわされている。
高橋団吉「新幹線をつくった男 島秀雄物語」にはこんな記述がある
そのころ島は下山の社用車で出勤することが多かった。(中略)島は、国鉄幹部の当然の務めとして電車通勤をしようと下山に勧めるのだが、二日に一度誘われるので、たびたび同乗するようになっていた。しかし、失踪前日の四日、下山は「明日は他の所を回るので出社は遅れる」と島に伝えていたのである。
最後の2行は、事件にかかわる重要な証言であるはずだが、当時の記録には残っていない。明らかな事実は総裁を轢断した列車が皮肉にも昭和10年に島が設計した蒸気機関車D51だったということだ。
事件の翌年3月、島のプロデュースのもと初の長距離電車列車である湘南電車がデビューする。オレンジとグリーンのツートンカラーを身にまとった電車は、戦後復興の時代を颯爽と駆け抜けていった。そして湘南電車を実験台とした島は、新幹線を生み出してゆくことになる。
いっぽう東通工。この町工場みたいな企業の実績を認めたのはアメリカのウェスタン・エレクトリック社だった。WE社はトランジスタの特許使用を認め、東通工は昭和30年にトランジスタラジオの発売を開始する。やがて、この会社は「世界のSONY」として成長を遂げてゆくことになる。
ビュイックがわずか数分で通り抜けていった八ツ山通りに、戦後の日本高度経済成長を支えた梁山泊現象があった。
参考資料
●捜査報告書より島秀雄の証言
ほどなくビュイックは大きなカーブを描きながら八ツ山橋のたもとで第1京浜国道(Aアベニュー)へと合流する。
当時は品川駅のすぐ東側(現品川グランドコモンズ近辺)まで高浜運河が伸びており、海上輸送と貨車輸送の中継点になっていた。
潮の香りがここまで漂ってくる。潮の香りに混ざるように穀物の匂いが流れてくるのは、米軍の第71補給部隊の食糧倉庫(現東京水産大学)が並んでいるからだろう。
この海からの利便性が5年後に仇となる。水爆実験によって太古の眠りからさめた巨大怪獣ゴジラは、八ツ山橋付近に日本初上陸する。ゴジラの所業は一連の列車妨害事件よりタチが悪かった。品川操車場を滅茶苦茶にし、東海道本線上り列車を脱線させ、橋を一撃で粉砕してしまうのだった。
そのままビュイックは第1京浜を直進し、まもなく品川駅前を通過した。
この日の品川駅には緊迫した雰囲気が漂っていた。昨日発表された3万7千人の整理通告は内に秘めた爆弾だった。それに加えシベリアからの永徳丸第2次引揚者たちを東北方面へ送る列車が18時すぎに停車する予定だった。
昨日、永徳丸引揚者が京都駅で起こした騒動については、すでに職員たちの耳に入っていた。シベリアでの抑留生活で赤化した引揚者たちは、京都駅で共産党員と合流し気勢を上げた。しかもそのゴタゴタで警察が検挙した共産党員の釈放を要求、引揚列車への乗車を拒否した。そして1700名もの引揚者が赤旗を振りながら駅前広場を占拠し、駅長室まで押しかけて乱闘騒ぎを行ったのである。
品川駅は復員列車の停車駅では共産党本部のある代々木駅に一番至近距離となる。駅での騒動ならまだしも、最悪のシナリオは代々木駅への回送を引揚兵たちが要求するというものであった。「外憂内患」、これがこの日の品川駅の状況だった。