東京の蒲田駅と五反田駅とを結ぶ東急池上線に「洗足池」という駅がある。
駅の前には都内でも屈指の広さを持つ洗足池が広がっている。江戸時代から風光明媚な名勝地として知られていたところだ。
こじんまりとした駅を降りて、池とは逆に商店街を進んでゆく。途中を左に折れて坂道を登る。閑静な住宅街をゆるやかに抜けて行く坂の中ほどに、その家はあった。
住所は大田区上池上町1081番地。家の主は下山定則。6月に日本国有鉄道の初代総裁に就任したばかりで、まもなく48歳の誕生日を迎えようとしていた。
昭和初期に作られたと思われる英国風住宅、彼はこれを昭和17年の春に購入した。購入の資金にあてられたのは裁判官であった父下山英五郎の遺産である。官舎暮らしが長かった下山にとっては初めての持ち家だった。彼は自分の家が持てたことが余程うれしかったようで「俺の家には2階に風呂がある」と言って、いつも自慢をしていたという。
昭和24年7月5日火曜日、その日の朝、総裁はいつものように午前7時(当時はサマータイム制)に起床した。芳子夫人の話によれば、洗面所でヒゲをそった総裁は、起きてきた次男の俊次に「ヤアヤア」と朝のあいさつをしている。
総裁は居間で朝食をとる。味噌汁、半熟卵、お新香、そして2杯のご飯。その平凡な朝のメニューがおそらく生涯最後の食事となった。空にはどんよりと重い雲がたちこめていたが、久しぶりに朝から気温は20度を越え、むし暑い1日の予感があった。
もしこの日の朝、総裁が新聞に目を通していたとするならば、こんな記事が目に入ったはずだ。
朝日新聞はトップ記事で「第1次分に3万7百 国鉄、整理を通告」と、国鉄の人員整理が始まったことを報じていた。毎日新聞は人員整理のトップ記事に関連して「福島の空気不穏」と報じていた。
しかし総裁にとってとくに目新しいニュースなどなかった。人員を整理するという目的のために初代国鉄総裁職を引き受けたのは当の本人だった。そして昨晩遅く国鉄本社からかかってきた電話で、整理対象者による福島管理部での騒乱についても報告を受けていた。
目新しいニュースというものは、意外な場所にあるようだ。佐藤一「1949年謀略の夏」によれば、この日の共産党機関紙「アカハタ」には「吉田内閣などの挑発に乗ってストライキを行なうべきではない」という論説があるという。人員整理に対抗しようとしていた国鉄労働組合左派にとっては、肩透かしを喰らうような論説だった。
これは「共産党の非合法化もありうる」という前日のマッカーサー声明に呼応したものだった。国労の急進派が強行策をとった場合、その巻き添えで党が非合法化されてしまうことを恐れたのだ。
きっと総裁がこれを読んだら小躍りして喜んだに違いない。
しかし、残念ながら総裁は「アカハタ」を定期購読していなかった。おそらく表紙さえ見るのも嫌だっただろう。
そして、この日は名古屋大学法学部に通う長男の定彦が夜、帰省する予定だった。朝の家族の話題はもっぱらそれだったという。いっぽう総裁自身に関しては、9時から国鉄本社において局長会議、11時からはGHQを訪問する予定があった。9時からの会議は前日に連絡を受けたものであったが、GHQ訪問のほうは総裁自身がアレンジしたものだった。
さらに総裁にはもうひとつの予定があった。整理通告に関する国鉄労組からの交渉申し入れに対して、みずから回答をしなければならなかったのである。
同じころ、近所に住む歌手の淡谷のり子は営業に出るための身支度に余念がなかった。
この日は浅草国際劇場で行われる「テイチクショウ 歌う王座」の初日だった。ディック・ミネ、ベティ稲田、菊池章子、菅原都々子などテイチク専属歌手との競演による豪華ショーは、入場料120円、1週間の連続プログラムだった。
さらに夜8時30分からはNHKの人気ラジオ番組「陽気な喫茶店」に出演する予定となっていた。
前年発売の「君忘れじのブルース」が大ヒットした彼女にとって、昭和24年は久しぶりに忙しい年だったのである。
彼女がこの場所に住み始めたのは昭和11年のことだ。奔放なアバンチュール、フランスの名車シトロエン、洗足池の美しい風景、新築の洒落た洋館、そのどれもが彼女のお気に入りだった。
昭和20年5月25日の空襲は、この閑静な住宅街にも焼夷弾の雨を降らせた。炎は中原街道から下山邸の直前までを舐め尽くし、淡谷の家も全焼した。愛する衣装、ピアノ、車、そして藤田嗣治、東郷青児、竹久夢路などに描いてもらった肖像画の数々、そのすべてが灰となった。それでも彼女がこの地を離れることはなかったのである。
これは余談になるが、「テイチクショウ」は映画との2本立だった。豪華ショーに酔いしれた観客はさらに70円を追加すれば映画も楽しむことができた。この日、全国に先駆けて浅草国際劇場で公開された映画がある。木下恵介監督の「新釈四谷怪談・前編」だ。田中絹代がお岩を、上原謙が民谷伊右衛門を演じた。
この映画は、幽霊を幽霊として扱わず、良心の呵責を持った人間のもたらす幻覚として描いた点で画期的だった。単に納涼が目的の観客に、とこまでそれが通じたのかはわからない。
だが、その後数日間の間、彼らが新聞やラジヲで見聞したことは、納涼の幽霊話より奇怪で衝撃的だったに違いない。
午前8時15分、大西政雄運転手の運転する黒塗りのビュイック41年型総裁専用車が自宅前の路上に横付けされる。ナンバーは41173。
平常であれば大西運転手も国鉄職員として制服を着用しているのだが、整理が始まる数日前に総裁から「制服では目立って危険だから、私服で出勤してくれ」と言われていた。背広を持っていなかった大西は、仕方がないのでジャンパー姿でハンドルを握っていた。
総裁はいつものように玄関に両足を投げ出して時間をかけて靴を履く。紐を解いて靴べらを使わずに靴を履き、そして紐を結ぶのだ。そしてその靴は同居人の仲村量平の手で「コロンブス靴クリーム」によって磨かれていた。
カバンと弁当の包みを抱えた総裁は、車に乗り込む。8時20分、車はゆっくりと発進し、自宅前の長い坂道を登っていった。
それが家人の見た総裁の最後の姿だった。