下山事件資料館

下山事件その後

謀殺情報 VS 自殺情報

下山本高度経済成長の中においても、不思議とこの事件は忘れ去られることがなかった。

それまでの謀殺情報の集大成となったのが、矢田喜美雄の「謀殺・下山事件(昭和48)」だ。ここで矢田は総裁の死体を轢断現場まで運搬したという「S」という男の証言を聞き出すことに成功する。矢田は事件発生以来、新聞記者の枠を越えて東大法医学教室に出入りし、現場手前の線路上から謎の血痕まで発見している。そうしたキャリアを持つ作者による本作は時のベストセラーとなった。後に熊井啓監督で「日本の熱い日々・謀殺・下山事件」として映画化されている。

続いて自殺説の集大成ともいえる佐藤一の「下山事件全研究(昭和51)」が出版された。佐藤は松川事件の元被告という特異な立場の持ち主で、下山事件研究会に加わるうちに他殺説に疑問を感じるようになっていった。他殺説派の多かった研究会と袂を分かち、共産党からも除名された佐藤だが、10年にわたる研究の結果、慎重かつ冷静な筆致で数々の他殺説の根拠を看破してみせた。

昭和50年代以降、古畑鑑定の信頼性も揺らいできた。教授が昭和20年代に行なった「弘前大教授夫人殺害事件」「財田川事件」「松山事件」などの鑑定結果が再審などによって否定される結果となったからだ。そんな中、北大法医学教室の錫谷徹は「死の法医学(昭和58)」で、自他殺かまで判定してしまうことには、根拠に欠ける論理の飛躍がみられると論じた。そのいっぽうで、遺体の損傷状態から「立ったまま機関車に衝突した」という推定をしている。

その後も断続的に事件を扱った書物が出版されるが、朝日新聞記者の諸永裕司「葬られた夏(平成14)」、映像作家森達也「下山事件(シモヤマ・ケース)(平成16年)」、そしてフリーライターの柴田哲孝による「下山事件 最後の証言(平成17年)」が、現時点では最も新しいだろう。この”下山本平成三部作”に共通するのは、実際に殺害を行なった組織として矢板玄という人物がオルガナイザーをつとめた矢板機関の名を挙げている点だ。

そもそも3作目を書いた柴田哲孝は矢板機関に関係していた人物の孫であり、それが叔母から聞いた「あなたの祖父は下山事件に関係している」という発言を発端として、この3部作は始まっている。したがって3部作は共同制作な部分もあり、重複している内容も多いが、いっぽうで独自の調査や考察の結果も個別に提示されており、その調査内容には興味深いものがある。

事件が55年が経過し、大半の関係者も物故した。事件の真相が解明される可能性はますます低くなってきている。極端なたとえになってしまうが、謀殺者の側から物的証拠が出てくるとか、遺族が自殺であったことを証言するという事態にでもならない限り、誰もが納得する結果というのは出てこないのではないかと思う。

そういう意味においては下山事件は永久に結末をむかえないのかもしれない。

時計を巻き戻せ

以上が下山事件に関する現代までのおおまかな流れだ。

遺品の時計

自殺・他殺両方にニュートラルな立場で記述したつもりではあるが、もし何らかの先入観を持たれたとしたら、それは僕の文章力の限界だと思って欲しい。また、後半は書籍解説になってしまったが、これも事件の性格からいってやむを得ないことだ。

ここで書き足りなかったことはいくらでもある。それに関しては本編の方で書いてゆくことにしよう。

さて、本サイトでは事件に関する様々な文献の比較や検証、そして正確な事実関係の記録、資料の提供を目的としているが、そのいっぽうで「下山本」の作者たちが事件の本筋に直接関係がないとして切り捨ててしまった些細なこと、どうでもいいことを極力記述してみようと思っている。

たとえば、多くても2・3ページ程度しか書かれなかった部分がある。失踪前の総裁の行動だ。僕はあの時代の空気、あの時代の雰囲気を吸い込みながら、あの瞬間何が起こっていたのかをじっくり書いてみようと考えた。

とりあえず時計を巻き戻して昭和24年の「あの日の朝」にタイムスリップしてみよう。
これは下山総裁が起床してから三越本店で失踪するまでの155分間の全記録だ。