下山事件資料館

松川事件現場 52年目の訪問

事件現場の画像について

2001年8月、裏磐梯からの帰りに、松川事件の現場を訪れた。当時、デジタルビデオで撮影したものなので、画像はよくない。こういうのが好きな奴が多い大学サークルの同窓会用サイトで使用していたものだが、コメントも加筆してしてみた。

松川事件のおおよそ

松川事件昭和24年8月17日午前3時9分、東北本線の松川駅ー金谷駅間のカーブ地点で上り列車が脱線転覆し、蒸気機関車の乗組員3名が死亡する事件が発生した。

この夏、GHQの命令で9万7千人の人員整理を実施した国鉄は不穏な空気に包まれていた。整理案提出日の7月5日には国鉄総裁の下山定則が出勤の途中、日本橋三越で行方不明になり、翌日未明に常磐線北千住ー綾瀬間のカーブで轢死体として発見されている。さらに7月15日には中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走し、死傷者多数を出した「三鷹事件」が発生している。

そうした中でこの松川事件は起こった。現場のレールは継ぎ目の板が外され、枕木の犬目釘が抜かれており、明らかに列車の脱線転覆を狙った計画的な犯行だった。

捜査当局は首切りに反対する東芝松川工場労組および国鉄労組の共産党員らのしわざとみて20名を逮捕、一審では死刑5名を含む全員に有罪の判決を下した。しかし、被告は一貫して冤罪を主張、作家広津和郎ら文化人の支援もあって、1963年に全員の無罪が確定している。

現在でもこれらの事件の真犯人は特定されていない(下山さんの場合は自殺か他殺かが議論の対象となっている)。当時は共産党党員の犯行説や国労犯行説が社会の雰囲気として当然のように挙げられていたが、、逆に共産党を壊滅させるためのGHQの謀略説などもあり、真相は今だに藪の中だ。

52年後の現場

52年後の現場最初の画像は52年後(2001年)の現場、上の写真は手前の電柱と2本目の電柱との中間あたりから撮影されたと思われる。左手が崖という見通しの悪いカーブで、列車はブレーキをかける余裕すらなく脱線したのだろう。いっぽう犯罪者側からすれば、隠密にレールを外すには格好の場所だったといえる。

2番目の画像は松川駅方面から撮影した現場(写真中央)の遠景。県道の高架橋ができた以外は、52年前の風景と全く変わっていないのではないか。左から順に小高い山、線路、そし事件現場遠景て写真ではわかりにくいが線路の土手下に幅2m程度の農道がある。事件当時、ここに数百人の野次馬と報道陣が殺到した。

農道の右手には写真中央に広がるような田んぼがある。そして画面では見えないが、田んぼの右側はこれまた小高い山となっている。つまり幅200m程度の谷間になっているわけだ。人家はまったくなく、人知れず行動を起こすには適切な場所だ。しかし、実際には3人の男たちが事件現場で怪しい人物を目撃している。

平間高司と村上義雄の2人は、事件当夜土蔵破りを計画していたが未遂に終わり、家に帰る途中この農道を利用した。彼らは午前2時30分ころ転覆現場から足早に立ち去った9人の大柄な男たちを目撃したことを、差し戻し審で証言している。黒っぽい服装の彼らは手ぶらで、「足音も立てず異様な雰囲気」だったそうだ。

もう1人の目撃者である佐藤金作は、その夜、通りがかりにレールをはずす男たちを見た。修理か検査だろうと思って帰宅すると、その中の1人の日本人が後をつけてきて「口外すればアメリカの裁判にかけられる」と脅した。そして事件の5日後、GHQの出先機関であるCICの福島事務所に出頭するよう見知らぬ男に告げられた。佐藤は身の危険を感じ、弟のいる横浜に逃げ、三輸車の運転手をして身を隠したが、2カ月後の1950年1月12日に行方不明になり、40日後水死休で発見された。知らせで弟が駆けつけたが,既に警察により遺体は火葬に付されていたそうだ(清張「日本の黒い霧」より)。

暗い話の余談としてはどうかと思うが、画像右に写っている石は「女泣石」として古くから有名なものだそうだ。形状が男根に似ており、福島市山口の「男泣石」と対になっているらしい。

●99年7月、NHKのETV8「松川事件」で放送された現場の俯瞰画像

石は主張する

慰霊碑

さて、「石」。
この場合、原材料としての「石」を指している。魂の入った神聖なカタチを石扱いしているのではないので誤解のないように。

この地では石がお互いに自己主張をしあっている。最初の画像は日本国有鉄道が建立した慰霊観音像と殉職碑。最も現場に近慰霊碑 横い場所にに鎮座している。建立当時の写真と比べると、周囲をブロックで囲んだりして、かなり整地されているようである。

2番目の画像は慰霊碑を横から撮影したもの。機関士 石田正三、 機関助手 茂木正市、機関助手 伊藤利市とある。

3番目の画像はに事件50周年を記念して99年12月に建立された「謀略 忘れまじ、松川事件碑」。碑文にはこうある。

謀略許すまじ、松川事件碑時代の色に染まらない。時の流れに流されない。それは理性に導かれた民衆の抵抗を意味する。
権力者は民衆の犠牲の上に君臨し「国家・国民のため」と大うその御託宣をくだす。
法律を支配者のために作り、都合よく解釈し、国家の暴力装置としての軍隊・警察等を使い、公然たる弾圧、抑圧をくりかえす。
さらに非公然の不法の攻撃をしかける。
権力側に与しない者は、それを謀略と規定する。権力の広報部になり下がったマスコミは「過激派のしわざ」と煽り立てる。
この地松川で何者かが列車を転覆させた。
三人の機関車乗務員が尊い生命を奪われた。敗戦をへた日本の夜明けは、暗黒の道へ引き戻された。この年一九四九年、共産党の「九月革命説」は権力側に利用された。
松川謀略から五〇年、日本は新たな戦前史を形成した。平和憲法は瀕死の状況にある。デッチ上げられ、死刑判決まで受けながら一五年間の不屈の戦いを勝ち抜いた先輩達に最大の敬意を捧げ、犠牲者の冥福を祈り、平和の誓いも新たに五〇年碑を建立する。

    一九九九年一二月八日
    東日本旅客鉄道労働組合
    会長 松崎 明

4番目の画像は、事件現場から田んぼを挟んで反対側にある「松川の塔」。松川事件の原告団、弁護団と支持者によって建てられた。碑文は作家で松川事件被告の冤罪を広く社会に呼びかけた広津和郎によるもの。以下碑文全文。

松川の塔1949年8月17日午前3時9分、この西方200米の地点で、突如、旅客列車が脱線顛覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。何者かが人為的にひき起した事故であることが明瞭であった。 どうしてかかる事件が起ったか。朝鮮戦争がはじめられようとしていたとき、この国はアメリカの占領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労働者の大量馘首を強行した。 かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反対闘争に立上った。その機先を制するように、何者かの陰謀か、下山事件、三鷹事件及びこの松川列車顛覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯行であるかのように巧みに新聞、 ラジオで宣伝されたため、労働者は出ばなを挫かれ、労働組合は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を展開することが出来なかった。この列車顛覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみが、国労福島支部の労組員10名、 当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労働員10名、合せて20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、 階層を越え、思想を越え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。 救援は海外からも寄せられた。かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月12日全員無罪の完全勝利をかちとったのである。人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である
一九六四年九月十二日

こんな風に「石」がお互いに主張しあっていたため、この場所には「階級闘争」の聖地としてのピリリとした緊張感が漂っていた。
お陰で「女泣石」は何を主張しているんだろうという下世話なことが考えられなかった次第である。

「何者かによる犯行」

僕の場合、松川駅前の交番で現場への道を尋ねたのだが、心得たとばかりに用意してあるコピーの地図(しかも蛍光ペンでルート入り)をくれたのには笑った。僕みたいな物好きが結構いるようである。

現場周辺の道路はほとんどが農道で、車一台が通れるのがやっとな上、複雑に入り組んでいた。しかも、人家もない谷あいだ。人目にふれにくく、カーブであるため運転手からも発見されにくいという場所だった。実に適切なポイントを犯人が選んでいることが今でも実感できる。

50年前の深夜のことであるから、現場は漆黒の闇に包まれていたにちがいない。移動には線路を歩くしか方法はなかっただろう。こうした場所を犯行現場に選定したのは余程土地に知悉した人物か、相当入念な下見をした人物ではないかという印象を受けた。

帰り道、ハンドルを握りながら考えた。たしかに清張のいう通り、下山事件現場と同じようにここにもカーブがあった。だが、松川では人知れぬ場所をわざわざ選んで隠密裏にコトを運ぼうとしたのに対して、下山事件は23人もの目撃者が「総裁らしき人物」を目撃している。

両者を謀略と仮定した場合、松川ではわざわざ事故にみせかけるような偽装工作はしていない。謀略者は「何者かによる犯行」であることをアピールしているような節がある。いっぽう下山総裁に対してはその形跡がなく「自殺」という演出を行なったことになる。この違いは何なのだろう?

●車の運転をするときは余計なことを考えるのをやめましょう。

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