下山事件資料館

7月5日 午前8時43分〜44分

三信モータープール

三信モータープール日比谷公園と反対側に目を向けると、帝国ホテルは将校宿舎に、宝塚劇場はアーニー・バイル劇場へと姿を変えていた。

また、占領軍関係者の専用駐車場であった三信モータープール(現在の日比谷三井ビル)では、100台を越えるアメリカ車の壮大な眺めを見ることができた。

 最新型シボレー、48年型のダッジ、カイザー、マーキュリー、リンカーン、プリムス、47年型のナッシュ、パッカード、オ−ルズモビル、スチュードベーカー....当時のアメリカ車はフロントウィンドウの真中を支柱で支えているタイプが主流だった。後ろが丸いファストバックスタイルが大半で、色のド派手なものは少なく、フロントグリルのクロムメッキもまだまだ地味であった。

だが、木炭自動車が未だ大手を振るって走行しているこの国では、この風景自体が異様なものであったに違いない。

日比谷交差点・第一生命館

第一生命館日比谷交差点を越えると、皇居のお堀に面して連合軍最高司令部(GHQ/SCAP=The General Headquarters / Supreme Commander for the Allied Powers(in Japan))のある第一生命館が見えてくる。重厚な御影石で覆われたこのビルは、地上部分が最高司令部、地下の4フロアが第一生命の証券等保管庫として使われていた。

この日、下山は午前11時に「GHQ」を訪れる予定だった。国鉄職員整理の報告をするためであったと考えられている。

この「GHQ」が第一生命館のことを指すのか「CTS(民間運輸局)」のことを指すのかは今もって不明だ。同行する予定だった加賀山副総裁の証言がまちまちだからだ。捜査報告によればそれは「CTSのヘブラー(GHQ労働課のヘプラーのことか?)」だし、昭和40年に松本清張ら「下山事件研究会」が行ったインタビューではCTSのシャグノン中佐もしくはGHQのエーミス労働課長代理ということになっている。

ダグラス

元帥のキャデラック11時頃に第一生命館を再訪したならば、玄関に42年型キャデラック・リムジンが止まっていたかもしれない。

スタイルこそビュイック並みに古いが、その大きさでは他車を威圧する。フロント・バンパーには五つ星のプレートが取り付けられ、車両後部のプレートには「USA-1」と書かれている。日本中に住む誰もが、この車の主を知っていた。連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーがこのビルに出勤するのはいつも10時過ぎだった。

この日のマッカーサーは、昨日やり残した仕事の続きをしなければならなかった。昨日の閲兵式では悪天候のため、空軍300機の閲兵がすんでいなかったのである。果たして皇居前広場で強引に挙行したのか?それとも厚木飛行場まで赴いたのか?その辺についての記録は未確認だ。

日比谷交差点マッカーサーのキャデラックにかぎらず、日比谷通りのこの近辺はGHQ関係者の専用車が軒並み路上駐車をしていた。さらに馬場先門前のお堀を渡る道路までもが駐車場として有効活用されていた。そんな中をバケツを持ってうろうろしている日本人たちは「洗車屋」だ。

ここからは二重橋が正面に見える。戦前であれば日比谷通りを走る都電の乗客はこの位置で最敬礼をするならわしだった。今や視界に入るのは聖なる橋ではなく、目の前にずらりと駐車する威圧的な外車の集団だった。人々は敗戦国としての実感をかみしめながら、馬場先門前を通過したに違いない。

そしてビュイックは和田倉門前へと達した。時に8時45分であった。