下山事件資料館

7月5日 午前8時37分〜39分

8時38分 増上寺前

増上寺三解脱門日比谷通りへと入ったビュイックは北上を続ける。芝園橋を渡り、8時38分増上寺前を通過する。

徳川将軍家の菩提寺であった増上寺。通りに面して朱塗りの三解脱門が威容を誇っている。緑が生い茂る境内は一見平穏そのものに見える。

しかし、門を入ればそこには痛々しい光景が広がっていた。空襲により五重塔ほか諸堂宇を焼失し、歴代徳川将軍の霊廟群も灰燼と帰した。とりわけ徳川秀忠の遺骸を安置した台徳院霊廟は、その壮麗さで日光東照宮を凌ぐとさえ言われた国宝であったが、焼夷弾の雨はここにも容赦なく降り注いだのだった。

文化財の受難は何も戦争に限ったものではない。昭和24年はそれを象徴する事件が多発していた。1月26日には昭和大修理中の奈良・法隆寺の金堂で、電気座布団の不始末から内陣を焼失。日本最古の壁画とされていた12面の壁画を炎に包んだ。2月には愛媛松山城で門と櫓を焼失、3月には比叡山延暦寺五智院で本堂を焼失、ひと月前の6月5日には北海道の松前城天守閣が焼失したばかりだった。そしてこの日から1年後の昭和25年7月1日に、学僧の放火により京都鹿苑寺の金閣が焼失することになる。

●追記 : 昭和21年、増上寺の裏山で「小平義雄連続殺人事件」の被害者が発見されたことをフト思い出した。小平事件に関しては「無限回廊」さんのサイトに詳細がのっている。

8時39分 御成門

そこから200mほど進んだ御成門附近まで来た時である。

「佐藤さんのところへ寄るのだった」と、突然総裁が言い出した。佐藤さんの家に寄るのであれば御成門交差点を左折して、増上寺の裏手に回りこむか、Uターンをしなければならない。

「引き返しましょうか」大西運転手はそう尋ねたが、その時にはすでに交差点を過ぎていた。「いや、よろしい」と総裁は答えている。

御成門佐藤さんとは当時、民自党の政調会長であった佐藤栄作のことである。

総裁と同じ鉄道省出身の佐藤は、東京での住まいを転々としているのだが、当時の住所は港区芝三田小山町9番地。これは現在の三田1丁目の西側付近となる。御成門からの距離は1.5キロ弱、Uターンをしてもわずか2・3分のところだった。

佐藤さんの家に寄ることが、この場の思いつきなのか、失念していたことだったのかは、今だに不明だ。いっぽう、生前マスコミ嫌いだった佐藤は回想録的なものを遺しておらず、唯一の資料が「佐藤栄作日記」である。しかしこれは昭和27年から始まっており、下山事件に関するリアルタイムの記述は捜査報告に収録された佐藤栄作の証言しかない。

●佐藤栄作に関しては諸永裕司が「葬られた夏」で興味深い情報を書いているのだが、これは別段へゆずる。 

あっちの世界へ

佐藤さん「佐藤さんのところへ寄るのだった」

この発言についてはあまり重要視されていないようで、矢田喜美雄が「登庁前にかなり時間的な余裕があったことを意味している(謀殺・下山事件)」、佐藤一が「その予定もなく、別に緊急の用件が浮かんだわけでもなかったのだろう(下山事件全研究)」と書いている程度である。「時間」と「用件」。これが数少ないキーワードだ。

殺されてしまった下山総裁の場合「時間」というものにこだわっていたと考えられる。

他殺説では総裁が情報提供者と三越で接触しようとして相手に拉致され、殺されたという考え方が一般的だ。情報提供者との接触には、当然時間の約束がある。それは「○時○○分頃、三越店内で会おう」、というような具体的な時間を明示したものであったはずだ。

たとえば「謀殺・下山事件」では占領軍情報機関員であった宮下英二郎の情報を紹介している。それによれば総裁自身が「9時45分に三越中央階段で会おう」と言ったことになっている。ちなみにこの総裁の場合、G2の姫路CIC(米軍防諜部隊)の二世将校たちに殺されている。

そうやって考えると御成門における総裁は、「佐藤さんのところへ寄るのだった」けど、三越で情報提供者に接触する予定があった。また、その間にやっておかねばならないことがあったのかもしれない。そんなわけで「いや。よろしい」という発言につながったことになる。

御成門付近航空写真いっぽう、自殺した下山総裁の場合、総裁の心は揺れ動いていたと考えられる。佐藤に会うことが、さりげない暇乞いであったというのは考えにくい。むしろ考えられるのは、自殺すべきか悩んでいる人間が求める精神的な安堵ではなかったかと思う。たとえば自分の進退や今後の処遇に関する保証を得ることで(それがたとえ言葉の上だけのことであろうとも)、ひとときの安堵を得ようとしたのかもしれない。格好をつけたがる傾向のあった総裁にとって、局外にいて政治力のある佐藤はまさにうってつけの相談相手だったと考える。

この時期の総裁は首切りだけのために就任した実体のない名誉職に嫌気がさしていたようで「政界に出る」といったり「機械工として1からやりなおす」といったりと、支離滅裂な発言を繰り返している。仮に政界に出るにしても支持母体は国鉄ということになるが、すでに「首切り総裁」というマイナスの十字架を背負ってしまっている。また特定の故郷というものを持っていない総裁にとっては、支持地盤さえなかった。そのことを一番自覚していたのは総裁自身だったろう。

一瞬「佐藤さんに相談してみるんだった」と思いつき、次の瞬間には「どうせだめだろう」と自分で打ち消す。この振幅が最大になったとき、悲劇が起こったのかもしれない。

いずれの説にせよ、総裁は「いや、よろしい」と言った瞬間には、御成門の交差点を越えてしまっていた。それを地図であらわすと、まるで「こっちの世界」から「あっちの世界」へと一線を越えてしまったようにも見える。

翌6日の夜、司法解剖を終えた総裁の遺体は芝の青松寺に安置された。この寺は、御成門交差点の北西に200mと離れていなかったのである。