下山事件資料館

7月5日 午前8時34分〜36分

8時36分 都電三田停留所

広い第一京浜をビュイックは進んでゆく、道路の中央には都電の軌道があり、品川駅と上野駅、品川駅と飯田橋駅を結ぶチンチン電車が行き交っている。

泉岳寺、札ノ辻を通り抜け、田町駅前を通過する。駅周辺は空襲による被災を免れ、古い家並みが続いていた。一瞬、甘い匂いがするのは右手に森永製菓のキャラメル工場があるからだ。

人々は食生活の中に「甘味」というものをようやく取り戻しつつあった。戦後4年が経過して食料事情は急速に安定しつつあった。5月7日に成立した「料飲店再開法」により、外食券食堂や喫茶店以外の飲食店も公然と営業ができるようになった。また酒類配給公団も廃止され、ビール会社の出荷や販売が自由化、6月1日からは各地にビアホールが復活した。それまで医療機関に優先的に配給されていた氷も出回るようになり、この夏には街のそこかしこに「氷」「サイダー」と書かれた暖簾がぶら下ることになる。

ほどなく都電三田停留所交差点(現在都営三田線の三田駅のある場所=芝五丁目交差点)へとたどり着く。角には都電の三田車庫がある。ビュイックはここを左折して日比谷通り(引き続きAアベニュー)へと入った。

左折したのは札の辻?

大西運転手は朝日新聞インタビューで「三田」というポイントについて触れている。この近辺には「三田」つく地名が数多くあるのだが、僕はこれを「三田停留所」と解釈した。

ところが、宮城音弥「下山総裁怪死事件」にはこんな記述がある。

「大西運転手は、いつも、広い道路を選び品川をまわってAアベニュー つまり、札の辻から御成門−田村町−日比谷というコースをとっていた」
三田付近航空写真

「札ノ辻(ふだのつじ)」とは三田停留所の300m手前の交差点だ。一読するとここを左折して増上寺前や御成門方面へと向かったようにも解釈できる(地図上の赤矢印)。

ところが宮城はその直前に「Aアベニュー」と書いている。これは第1京浜と日比谷通りのことを指す占領軍用語に他ならない。そうだとすればこの文は「札ノ辻→(三田電停)→御成門」を意味することになり、札ノ辻自体は通過ポイントにすぎなくなる。

札ノ辻の引用元となったのは、おそらく毎日新聞の昭和24年7月20日づけ記事であろう。「三越までの1時間、5日朝の下山氏 あてなき疾走行路」と題してこんな記事がある。

東洗足−五反田−品川八ツ山−札の辻−御成門−田村町−日比谷と、大西運転手がいつも通る道であった

これは、7月17日に捜査当局が大西運転手に実際にビュイックを運転させて実地検証を行ったことについて、同乗した国鉄自動車係長木村守衛が語ったものである。ビュイック

唐突に出てきた「札ノ辻」というポイントには、正直言って混乱させられる。他の文献にこのあたりのことを詳細に記したものがないからだ。

しかし、21世紀になってようやく3車線への拡幅工事を始めた札ノ辻ルートに対して、日比谷通りは当時から片側3車線と幅員が広かった。何よりも増上寺前や御成門方面に行くには合理的なルートである。

しかも、当事者である大西運転手は常に「点」でルートを語っている。しかもその「点」で曲がり角を表現している形跡がある。そうやって考えると、大西運転手の言う「三田」は三田停留所と解釈した方が自然だろう。