下山事件資料館

7月5日 午前8時51分〜52分

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巨大な龍

高架橋これ以降、ビュイックは、東京高架橋ぞいを複雑な動きをしながら、進んでゆく。

帝都の南玄関口である新橋と北玄関口である上野間を高架鉄道で結ぶというプランが決定したのは、明治22年ことだった。明治33年に工事は開始され、大正3年に浜松町と東京間、大正8年に東京ー神田−万世橋間、大正14年に神田−秋葉原間がそれぞれ竣工している。

一直線に伸びてゆく煉瓦アーチ橋、それはあたかも大東京の中心に横たわる巨大な龍のようであった。

新常盤橋その巨大龍の飼い主である国鉄総裁が、蟻のようなビュイックに乗りながら、脇腹のあたりを走り抜けてゆく。

本庁ではあと10分で、局長会議が始まろうとしていた。定時出勤を怠らず、何かある場合には、必ず一報を入れていた総裁は、この日誰にも気づかれることなく、高架橋側道を走り抜けていったのである。

同時刻、飼い主の予想に反して龍の背中では、順調に電車は運行していた。いや、日本全国の鉄道は不気味なほど順調に運行されていたのである。

高架鉄道ぞいを直進したビュイックは、新常盤橋を渡り、外濠通りを左折した。

神田駅西口へ

当時の新聞記事の下山総裁さて、大西運転手の証言などによれば、ここから神田駅西口へと向かうわけだが、僕がビュイックの正確なルートを把握する上で、最も悩んだのがこの神田近辺だった。

新常盤橋からどのように神田駅西口へと向かったのか?、その後どのようなルートで神田駅を一周したのか?、この2つの疑問のうち、本章では前者について考えてみよう。

ます、前章で紹介した7枚の地図の神田駅付近のルートをご覧になって欲しい。

書籍という狭いスペースに製図するためだろうか、大半の地図において、ビュイックが辿った神田駅西口へのルートはデフォルメされており、不正確だ。

(1)は地図というよりは概念図であるから問題外。(4)(6)(7)は外濠通りからダイレクトに線路の西側を北上しているが、これはスペースの都合上省略した結果であり、そもそもこんな道は存在しない。

詳細に記述されているのは、(3)松本清張「日本の黒い霧」初版地図と(4)宮城音弥「下山総裁怪死事件」地図だけであることがわかる。ただし前章で述べたように、宮城ビュイックは清張ビュイックを踏襲したものと考えられるため、正確なルートを把握する頼みの綱は、清張のビュイックしかないことになる。

ところがどっこい、この清張の地図は、全集版や文庫版「黒い霧」では下山事件研究会作成の地図(6)に差し替えられてしまっているのだから始末に終えない。(6)には清張の地図と共通するニュアンスが伝わってくるものの、精密なルートを確定するには不満であるうえ、一部が省略されてしまっている。

また、いくら清張の地図が詳細に描かれているからといって、それが真実を正確に伝えているとは限らない。何しろ7分の1の確率だ。そうだとすれば、清張地図の根拠となった基礎資料を探してみる必要がある。

まずは捜査報告書「7月5日の行動

常盤橋からガードのところに来ると「神田駅に廻ってくれ」と言われ神田駅の西側通路へ来た折・・・・・

ダメだ、参考にならない。ただし、この証言によって、神田駅に四つある入口のうち、西口へ向かったことがわかる。続いて捜査報告書「大西運転手の証言

白木屋も三越も開店して居らないので、省線神田駅方面を廻って・・・・・・

これもダメ。お次は7月22日づけ朝日新聞の大西運転手インタビューだ。

新常盤橋からガードくぐり、それからガードを三回くぐって神田駅を中心に一回りし、

わずか1行だが、ここには答が詰まっている。「新常盤橋からガードをくぐり」というのは、新常盤橋を渡って左折する場所にある国鉄「竜閑橋ガード」のことだ。その後の記述「三回ガードをくぐって」というのは、神田駅をひと回りした場合の計算だから、西口までのことを考えるなら2回で足りるはずだ。

清張の「黒い霧」初版本の地図は、竜閑橋ガードをくぐった後、確かに2つのガードをくぐっている。また、この2つのガード以外に神田駅西口へ行く方法はない。さらに件の朝日新聞記事には、このような地図まで挿入されていた。清張の地図の根拠になっているのはこの朝日新聞の記事と考えて間違いないだろう。

前章で清張ビュイックは常盤橋手前を右折するというミスを犯したが、今度は唯一正確に神田駅西口へのルートをトレースしたことになる。

龍閑橋

竜閑橋ガード以上のことから、この数分間のビュイックの動きを再現してみよう。

新常盤橋を渡り、外濠通りへと左折したビュイックは、まず竜閑橋ガードをくぐって高架鉄道の反対側、つまり西側へと出る。「新常盤橋からガードをくぐり」という部分だ。

さらに100メートルほど直進して、都電鎌倉河岸停留所のある交差点(現在の竜閑橋交差点)を鋭角に右折する。

建造物の残骸が埋められてゆくがいっぽうで、この界隈に多数存在した材木商は、戦後復興の波に乗って新材を次々と送り出していた。バラックだらけの焼け跡に屹立とそびえ立つ材木の森は、不思議なコントラストを総裁の目に映し出していたに違いない。

現存する龍閑橋当時、この間には本家本元の「龍閑橋」があった。しかし、橋の下を流れる龍閑川(外濠の分流になる)はご多分に漏れず埋め立ての真っ最中だった。空襲によって焼失した神田駅周辺のガレキを一手に引き受けていたのだ。

龍閑橋。夏目漱石の「草枕」にも登場した「名代の橋」は、地元の再建と共に橋としての機能を失ってしまった。そして、橋の一部分だけが、最後の夏に通り過ぎていった1台の黒塗りの車の記憶を押し込めながら、今でも同じ場所で朽ち果てている。

千代田橋ガードと新石橋ガード

千代田橋ガード時計の針は8時51分を過ぎていた。NHK第一放送「子供の音楽」では、3曲目の「鉛の兵隊(ピエルネ作曲)」が流れていた。鎌倉河岸からおよそ200メートル、ビュイックは再び東京高架橋と再開する。最初のガードは「千代田橋ガード」という。

ここまでビュイックは「呉服橋ガード」「常盤橋ガード」「竜閑橋ガード」を見てきたわけだが、どうやら鉄道設備管理者による「橋ガード」シリーズもここいらでネタ切れになったようだ。「千代田橋ガード」の場合、そういう名称の橋が近隣にあったわけではなく、単にガード竣工時の大正8年、近辺の町名が千代田町だったに過ぎない。

新石橋ガード「竜閑橋ガード」までの場合、「近隣の橋名」+「ガード」というネーミングがなされていたのだが、「千代田橋ガード」の場合は「住所」に「橋ガード」を無理やりくっつけたに過ぎない。そういう意味では、かつての「エキセントリック少年ボウイ」の怪鳥「鳥バード」とそう大差はない。

千代田橋ガードをくぐりぬけると、鋭角に左折して新石橋ガードをくぐり、多町大通 へと入った。

このガード名もかつてここに存在した町名に由来する。「千代田町」も「新石町」も関東大震災後の帝都復興区画整理により、昭和8年に消滅した。