午前8時40分、丸の内の運輸省庁舎内にある日本国有鉄道本庁でも運命の1日を迎えようとしていた。
総裁秘書の大塚辰治は、時計の針がその時間を指したのを確認すると、4階の秘書室を出た。毎朝8時45分から9時までの間に到着するはずの総裁を迎えにゆくためである。
このビルは昭和13年に鉄道省庁舎として竣工した。設計は鉄道省工務局建築課。地下1階、地上8階建て、のべ床面積61,000平方メートルという大きさは、当時日本最大の事務所建築だった。外壁は3階下端までが御影石、それより上階では淡い青色のタイルが貼られている。
ただでさえ巨大な上、「タ」の字と同じ形状をした庁舎ビルの廊下は、それ自体が迷路だった。歩いているうちに方向感覚を失った外部の人間がキョロキョロしている風景がしばしば見られた。そんな廊下を通って、大塚はビルの裏玄関へと続く階段を降りていった。
ビュイックが田村町(現西新橋)交差点を越えると、そこから先は別世界だった。
空襲による被災をまぬがれ、構造的にも堅牢なビルの多かったこの界隈は、大半の建物が占領軍に接収されていた。
左手には内幸町の放送会館(現在の日比谷シティ)が見える。ラジオ放送開始以来、愛宕山から電波を送り続けていたNHKは、昭和14年にここへと移転してきた。昭和20年8月15日には2階の第8放送室から全アジアに向けて終戦の玉音放送が放送されたが、その直前まで、終戦を反対する近衛師団によって占拠されていたことは数多くの書籍に書かれている。
昭和24年当時、このビルの4階には占領軍の民間情報教育局(CIE=Civil Information & Education Section)が入っていた。CIEはメディアを巧みに利用した民主化への教育政策を推し進めていた。そこはまた、放送機材の最新テクノロジーに触れられる場所でもあったようだ。最新東京通信工業の井深と盛田はここでテープレコーダーを聴かされて衝撃を受け、国産化を志したといわれている。
ちょうどビュイックがこの建物の前を通りすぎたとき、第1放送では8時30分から45分まで「尋ね人」を放送していた。「もと満州黒河省の○○部隊におられたタナカさん、またはタナカさんをご存知の方はを日本放送協会の”尋ね人”の係へご連絡下さい」というやつだ。安否を気づかう人々の悲痛な叫びがアナウンサーによって淡々と読み上げられていた。
まもなく下山総裁自身がその「尋ね人」本人になってしまい、9時間後にはこの放送局から「行方不明」として報道されることになる。
まもなく左手に日比谷公園が見えてくる。松本楼は憲兵司令部の宿舎に、現在大噴水がある場所にあった野球場には「ドゥリットル・フィールド野球場」という看板が掲げられていた。
僕の想像では、この日ビュイックから眺めた日比谷公園はゴミだらけだったのではないかと思う。というのも昨日はアメリカの独立記念日だったからだ。
午前10時、皇居前広場で始まった独立記念式典では、第8軍司令官ウォーカー中将の指揮のもと1万6千の陸海兵が分列行進を行い、マッカーサーの閲兵を受けた。その行進は皇居前広場を出て、ブラスバンドの音を高らかに響かせながら、丸の内、有楽町に至る目抜き通りを行進している。
午後1時からは日比谷公園などでパーティやスポーツ、ダンスなどのイベントが催され、午後8時30分からは打ち上げ花火大会が行われた。当時の新聞が「自由の女神」や「ナイアガラ」などと書いているところからみると、本格的な花火大会であったようだ。