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「とても面白い方でした。放っておいたらいつまでも喋っている...何でも気安く話せるような人でした」
生前の下山総裁をよく知る方から、その言葉を聞いたとき、僕は総裁の無惨な最後を思い出していた。
線路に散乱した総裁の遺体は、そのキャラクターとはおよそかけ離れた陰惨なものだった。饒舌だったこの人は、歴史に対して自らの死因すら説明しないまま、この世を去ってしまったのだ。
「戦後史最大の謎」と呼ばれる下山事件は、その沈黙から始まっている。社会に自殺・他殺論争を巻き起こし、以後半世紀にわたって数え切れないほどの主張がメディアで展開されてきた。にもかかわらず、いまだ誰もが納得する答は出ていない。
その「下山事件」とはどんな事件だったのだろう。
昭和24(1949)年7月5日、朝9時30分すぎ、下山定則国鉄総裁は出勤の途上、公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま謎の失踪を遂げた。
総裁の行方不明を知った警視庁では午後2時ごろ極秘捜査を開始、午後5時すぎから公開捜査に踏み切った。だが失踪から15時間後、常磐線の北千住と綾瀬駅間で、総裁は轢死体となって発見されたのだった。
遺体を発見したのは松戸ゆきの最終電車、いっぽう轢断したのは6分前に現場を通過した869貨物列車だった。この列車は機関士の寝坊と蒸気圧の低下により操車場を8分遅れで出発していた。またヘッドランプは不調により通常のワット数を満たしていなかった。このことが後に乗務員のみならず田端機関区に対する疑惑を招くことになる。
6日早朝、轢断現場で東京都監察医務院の八十島医師は、死体の検案を行なった。その結果「自殺あるいは過失による轢死」と判断した。だが、総裁の当時置かれていた立場を考慮して、司法解剖をすることを進言した。
というのも総裁失踪の前日、国鉄は3万7百人の従業員に対して第一次整理通告を出したばかりだったからだ。
昭和24年当時、この国は、冷却化する米ソ関係の狭間にいた。中国では共産党がほぼ全土を掌握、朝鮮半島では南北の対立が、ドイツでは東西の対立が深刻化していた。
そうした中で、アメリカは日本を西側陣営の一員として自立させる必要があった。それには物価上昇率60%というインフレにあえぐ日本経済を安定させることが先決だった。
そこで打ち出されたのがGHQ経済顧問ドッジの提言にもとづく緊縮財政策、いわゆるドッジ・ラインだった。企業に対する融資は引き締められ、倒産あるいは人員整理に追い込まれる民間企業が相次いだ。
公務員とてそれは例外ではなかった。6月1日、吉田茂内閣によって行政機関職員定員法が施行された。これにより公務員で約28万5千、国鉄で約9万5千人という史上空前の人員整理が行われることになったのだ。当然この人員整理は民間にも波及するだろう。敗戦により打ちひしがれたこの国に、百万人以上の失業者が生まれるという試算も、決してオーバーではなかったのである。
同じ6月1日、日本国有鉄道が公共事業体として発足し、初代総裁として前運輸次官の下山が就任した。総裁職には民間からの起用も検討されていたが、人員整理を進んで引き受ける者など誰もいなかった。やむを得ず下山が了承したのだった。下山としては総裁職は当座のつなぎであり、人員整理が終わったら辞任する覚悟であったという。
吉田内閣の容赦ない人員整理政策に対して、労働者や日本共産党も対決の姿勢を鮮明にしていた。共産党の徳田球一、野坂参三らは「9月までに吉田内閣を打倒し、人民政権を樹立する」と発言、「9月革命説」が公然と国民の間で語られるようになっていた。
GHQの支配下で革命が起こせると彼らが本気で考えていたかどうかは疑問だが、この時期を前後して、革命を意識した労働争議が頻発している。
日本製鋼広島製作所では1500名の従業員が人民政府の樹立を叫んで工場を占拠した。東芝の新潟加茂工場では組合による生産管理が行なわれた。6月30日には福島県平市(現いわき市)で炭鉱労働者や共産党員、応援の市民により警察署が占拠され、赤旗が振られる「平事件」が発生している。
下山総裁を待ち受けていたのもこうした急峻な労働攻勢だった。6月9日から新勤務制に反対して国電ストライキが行なわれた。そのさ中、「人民による電車の運行管理」を決議した組合員が、赤旗を振りながら電車を走らせる「人民電車事件」が発生している。
さらに6月26日、国鉄労働組合(委員長不在のため、副委員長の鈴木市蔵が実質的な最高責任者)は「第十五回中央委員会(熱海会議)」において、「最悪の場合ストを含む実力行使」を決議している。また「平事件」に際して、宮城県から応援に駆けつけようとする警官を乗車拒否する騒動も発生していた。
6月27日、ソビエトからの引き揚げ再開の第一船、高砂丸が舞鶴に入港した。共産主義の洗礼を受けた復員兵たちは、インターナショナルを高らかに歌いながら、歓迎の赤旗と入り混じった。
またこの時期、国鉄では時流に乗った何者かによる列車妨害工作が頻発していた。下山事件の起きた7月には微小なものまで含めると1574件の妨害工作が報告されている。
7月2日、労働組合側と国鉄当局の交渉も最終段階を迎えた。下山総裁は鈴木市蔵副委員長らの眼前で突如として話し合いの打ち切りを宣言、苦渋に満ちた顔つきで退室する。鈴木らは突然のことに無言でこの退場を見送らざるを得なかった。
熱気は際限なく高まりを見せるようにも思えた。
しかし7月4日、マッカーサー元帥は「共産党の非合法化もありうる」という内容の声明を発表した。共産党が恐れていたのは、何よりも自分たちの党が非合法化されることだった。この声明は9月革命の幻想を打ち砕くのに充分有効だった。
そして同日、国鉄の第一次整理が発表されたのである。
下山事件はその直後に発生した。総裁の死を誰もが他殺と考えたのは当然のことだった。