下山事件資料館

7月5日 午前8時50分

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午前8時50分 常盤橋ガード

常盤橋ガード三越と三井本館の間を抜けたビュイックは、日本銀行前を通過して外濠通りを横断した。さらに、常盤橋を渡って常盤橋公園を横目に見ながら、国鉄「常盤橋ガード」まで進んだ。

この間、距離にして約400メートル。NHK第一放送「子供の時間」では2曲目の「可愛い仔馬」が流れていたはずだ。

大西運転手としては、このガードをくぐり抜けて、大手町2丁目先の交差点(現在逓信総合博物館のあるところ)を左折するつもりだったのだろう。そうすれば国鉄本庁の裏口へは一直線だった。むろんガードの手前を左折して高架沿いに進んでも本庁へ行くことも可能だ。「常盤橋ガード手前」とはそういう場所だった。

ところがここで総裁が「神田駅に廻ってくれ」と言った。
指示は直進でも左折でもなかった。
大西運転手はガードの手前でハンドルを右に切り、高架に沿って神田駅方面へと向かった。

迷走地図

宮城音弥の地図

数多くの「下山本」で紹介されている東京駅周辺の地図には次の7種類があった。これを発表順に並べると、次のようになる。

  1. 捜査資料(下山白書)に添付された「下山総裁変死事件縮図」(昭和24年)
  2. 松本清張「日本の黒い霧」初版版(昭和35年)
  3. 宮城音弥「下山総裁怪死事件」版(昭和38年)
  4. 平正一「生体れき断」版(昭和39年)
        →佐藤一が「下山事件全研究」に引用
  5. 下山事件研究会編「資料下山事件」版(昭和44年)
        →松本清張「日本の黒い霧」文庫版へ引用
  6. 矢田喜美雄「謀殺・下山事件」版(昭和48年)
  7. 日下圭介「遠すぎた終着」版(平成7年 ただし、原本は5と思われる)

●上の地図をクリックすると、この全てを見ることができます。
●重いですが、管理人作成の史上最大の「東京駅周辺関連図」はこちらです。

このうち、2番と3番(上の画像参照)のビュイックはこの時点で別行動の真っ最中だ。なぜなら、この2台は常盤橋を渡る前に外濠通りを右折してしまっているからだ。

おそらく松本清張は日銀の金庫に眠っている「ダイヤモンド」に気をとられていたのだろう。宮城はといえば....清張に引きずられていってしまったに違いない。

このミスに気づいた清張は、文庫本の発売にあたって地図をまるごと差し替えてしまっている。自ら発起人の一人として参加した下山事件研究会が作成した地図にだ。この差し替えによって、ウヤムヤにされてしまった問題がもうひとつあるのだが、これは別章に譲ろう。

トップの判断は遅かった

神田駅アクセスマップ三越から国鉄常盤橋ガードまでの400m区間には神田駅に行くのに4つのルートがある。ビュイックが走ったのは、その中でも最悪のルートだった。

ひとつめはAのルートだ。三越正面玄関から、中央通りを直進しさえすればいい。地図では割愛したが神田駅の東口に容易に辿りつくことができる。

ふたつめは、Bのルート。三越と三井本館を抜けたところを右折する。左手に日銀の巨大な建物を眺めながら進行する。この道は神田駅の西口へと続いている。

お次は清張と宮城のビュイックが間違えて進んでしまったCのルートだ。現実のビュイックは三角形の2辺を走る形となったが、これなら1辺ですむ。

つまり、総裁が「神田駅へ廻ってくれ」と言うタイミングが早ければ早いほど、効率よく神田駅へとアプローチできたはずなのだ。

企業のトップが運転手に気を使うわけがないと言われればそれまでだが、不必要に大西運転手に常盤橋を渡らせてしまったこのケースに関しては、総裁が神田駅行きを決めた地点が推定できる。それは常盤橋を渡ってから国鉄常盤橋ガードに至る100m程の区間だったに違いない。

役所へ行くことに言葉の上だけで同意していた総裁は、400mというわずか1分足らずの距離と時間の中で、次に行くべき場所を考えていたのだろうか?あるいは「とにかく登庁したくない」という心理から、とっさに発した言葉なのかもしれない。

常盤橋ガードでの発言はギリギリの選択だったといえる。ガードをくぐってしまえば、神田駅はますます遠くなるばかりだ。しかし、「神田駅」という指示も、次の局面ではくつがえされることになる。