下山事件資料館

7月5日 午前8時20分

午前8時20分 淡谷のり子邸前は通ったか?

下山総裁変死事件縮図より「車は歌手の淡谷のり子さんの家の前を通り、広い中原街道に出て五反田のほうに進んだ」。

矢田喜美雄は「謀殺・下山事件」で出勤シーンをこのように書いている(諸永裕司の「葬られた夏」にも同様の記述あり)。

ところが、他の文献や当時の新聞記事を探しても「淡谷のり子邸前通過」という記述が見当たらない。そこでこの章では「本当に淡谷のり子邸前を通ったのか」について考えてみよう。

上の地図は当時、警視庁捜査一課から「漏洩した」とされる捜査報告書、いわゆる「下山白書」に添付されていた図版の一部だ。「下山総裁変死事件縮図」という仰々しいタイトルがついている。原本はモノクロだが僕の方でヘタクソな色塗りをしてみた。なぜ塗ったのかというと、単に色塗りが好きだからである。

この地図と洗足池の住宅地図とを見比べてみればわかるのだが、ビュイック総裁専用車は青の矢印で示された五反田よりのルートを通っており、淡谷邸前は通っていないことになる。

踏切というリスク

池上線踏切もうひとつ問題がある。淡谷邸の前を通過して(地図では赤ルート)、中原街道に出るには、東急池上線の踏切を渡らなければならないのだ。

いっぽう青ルートではどうかというと、池上線をまたいでいる月見橋で線路を越えることができる。しかも距離的に50mほど近道だ。

当時、この付近の鉄道と道路の交差状況はどうだったのだろう?

洗足池の住宅地図では洗足池駅〜長原駅間の鉄道と道路の交差状況を2つの円で表した。ピンク系の円で囲んだところは踏切、緑系の円で囲んだところは橋で線路を渡れるようになっている。6ケ所ある交差場所のうち、踏切は2ヶ所、池上線をまたぐ橋は4ヶ所もある。

道路に一方通行の規制がない時代だ。いくら電車本数の少ない時代だとしても、朝の通勤時間帯にわざわざ踏切を通過するリスクを犯す必要は全くないのだ。もっとも、総裁が淡谷の熱狂的なファンであったら話は別なのだが...

「右スミに顔を....」

事件発生直後の8日、朝日新聞では警視庁捜査二課の捜査結果として以下のような記事を掲載している。

五日朝下山氏が自宅を出て自動車に乗るとき、いつものように左スミに腰掛けて右側の見送りに頭を向けることをせず、この朝だけ右スミに(筆者注:ここに「腰掛けて」が入る)顔をそむけていたという事実が明らかとなった。

大西運転手下山邸前に車を止めた場合、見送りの人々を「右側」に見るのは車が右向きに駐車している場合だ。この情報を信用するならば、淡谷邸の方向へ車は向いていないことになる。

なお、顔をそむけていた点に関しては、7月22日づけ朝日新聞に掲載された大西運転手インタビューに全く違うことが書かれている。

ドアを閉める時、毎朝の習慣通り車内のラジオに合わせて時計のネジをいっぱいに巻いてから見送りの家人に車窓から「いってくるよ」とコックリうなずかれた。

7年間ものあいだ近所同士だった下山定則と淡谷のり子、この2人はきっとどこかですれ違ったことだろう。総裁は洋楽や洋画の鑑賞が趣味だった。淡谷は戦時中もモンペをはかずにドレスとハイヒールで通し、後年「演歌が流れると耳をふさいで逃げていった」。この2人、趣味において相通じる部分があったかもしれない。

しかし自由奔放に生きた女性と堅実な鉄道官僚という二人の人生は、あまりにもかけ離れており、決して交錯することはなかった。そして運命の日、総裁が淡谷のり子邸前を通ることはなかったと僕は考える。そして生きて戻ることもなかった。

いっぽう淡谷のり子は50年以上この家に住みつづけた。「ものまね歌合戦」では清水アキラばかりいじめていたこの名歌手は、平成11年9月27日、玄関奥にある6畳の部屋で、老衰のため息をひきとった。92歳だった。